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| 「ゴミ山で生きる子どもたち 20年の記録〜『バスーラ』」 |
遠田 恵子 |
そのドキュメンタリーを見て、私は思った。「幸せって何だろう?」「本当に豊かに生きるって、どういうことだろう?」・・・ 何を子どもじみたことを、と思われるかもしれない。けれど、深く思った。心から、思った。
フィリピンのゴミ捨て場で生きる人々を記録し続ける四ノ宮浩(しのみや・ひろし)監督が、3作目となる『バスーラ』を完成させた。バスーラとは、タガログ語で「ごみ」という意味。マニラ郊外の巨大なゴミ捨て場・スモーキーマウンテンを監督が初めて訪れたのが1989年。そこには2万人をこえる人たちが暮らし、一日に数千トンものゴミが運ばれてくる。強烈な悪臭とハエの大群、人体の一部も無造作に捨てられているようなところで、家族のために懸命に働く子どもたちに出会い、その澄んだ瞳に衝撃を受けたという。それから20年。『バスーラ』では、第一作の撮影で出会った子どもたちのその後を追っている。
スモーキーマウンテンはフィリピン政府により1995年に閉鎖され、そこに暮らしていた人たちは国が用意した住宅に移り住んだ。しかし、元住民のうち9割は仕事に就けず、結局、新たにできたゴミ捨て場でゴミを拾う毎日を送っている。第一作当時、16歳で結婚・出産したクリスティーナも、一時は順調に暮らしていたが、夫の失業や子どもの病でたちまち生活が困窮。泣き暮らす母を見かねた高校生の長女が、「家族のためならどんな仕事でもする。ゴミ拾いをしてでも、妹たちの学校は続けさせる」と、決然と語るのだ。
私は、この「家族のためなら…」という長女の言葉にハッとした。ゴミ山に暮らす人々は、常に「家族」を第一に考えるのだ。親は子どものために、大きい子どもたちは幼い弟妹のためにゴミを拾う。自分のためでは決してなく、ただただ「家族」のために。日本からみれば、想像を絶する厳しい環境にありながら、家族が寄り添って、助け合って命をつないでいる。ゴミ拾いで得たわずかな稼ぎを嬉しそうに母親に手渡す少年。教会で、「私の命をあげますから、病気の弟を助けて下さい」と必死に神に祈る少女。その澄んだ瞳が、圧倒的な力をもって迫ってくるような気がした。家族とは?心豊かに生きるとはどういうこと?食べ物やお金があれば幸せなの?あなたは幸せ?あなたの家族は…幸せ?
四ノ宮監督は語る。「結局、20年経っても彼らは変わらず貧しいまま。でも私はあきらめない。映画を通して訴えていく。」監督はまた、日本の若者の力に期待している。「誰でもできることは必ずある。ひとりの声は小さくても、集まれば大きなうねりとなり、きっと世界を変えることができる。映画を見て、まずは現実を知ってほしい。」監督は、全国の大学や高校に出向き、直接若者と語る場を積極的に設けている。
私も、期待したい。ゴミ山の子どもたちの澄んだ瞳に触れ、日本の若者が自分の家族に心を寄せ、自身の生きる意味を見出してくれることを。
『バスーラ』。いろんなことを考えさせてくれるドキュメンタリーだ。
「BASURA バスーラ」 http://www.basura-movie.com/
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先日、チェコスロバキア出身で、現在ドイツを拠点に活動しているマイム・アーティスト、ミラン・スラデクさんと個人的にお話しする機会に恵まれました。ミランさんは、スロバキアで文化勲章を、ドイツで十字勲章を受けた、ヨーロッパを代表する舞台芸術家です。
今回、ミランさんから、演技や演出等についての貴重なお話を、沢山お聞きすることが出来ました。中でも印象に残ったのは、次の言葉です。
「セリフはスープに浮かぶ油のようなものだ!」
ミランさんのおっしゃったことを要約してみましょう。
“人がスープを作り、飲むのは、油のためではありません。スープを作ると、どうしても上澄みに油が浮いてくるのです。それと同じように、セリフは、人が何かを知覚、認識、判断し、感情が動いた後、初めて発せられるものです。その何かを受け止めたという肉体をまず作ってから、ようやくセリフが出てくるべきなのです。実際、我々が生活の中で話をする時には、何を喋るか事前に準備していません。肉体で情報を受け止め、肉体に感情が表れた後、やっと言葉になるのではないでしょうか。
しかし、役者が役を演じる場合、予めセリフを覚えています。次に自分が何を言うのか、相手の言葉を聞く前に既に知っているのです。ですから、どうしても言葉の記憶ばかり辿ってしまいます。そして、肉体の反応を疎かにしがちです。演劇においては、はじめに肉体ありきなのです。セリフは、肉体表現の一部に過ぎないと考えるべきです。体内に宿る感情がほとばしった結果が、セリフなのです。
本当に重要なのは、油ではなく、スープなのです。“
このお話に感動した僕は、早速、6月14日に開催した劇団ぷにぷにパイレーツ第6回公演「ぷにぷに号泣祭り」で、ミランさんの考え方を実践してみました(上の写真は、その時の舞台写真です)。上手く上演できたかどうかは分かりませんが、少なくとも感情を表現しやすくなったのは事実です。
ミランさんのお話は俳優向けのものでしたが、アナウンサーにも同様のことが言えるのではないでしょうか?言葉を発する意味やその表現力において、参考になる部分が沢山ある言葉だと思いました。
人の心を打つ言葉を発するためには、あらゆる面において、不断の努力が必要なんですね!
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臓器移植法改正により、子供の臓器移植が国内でできる日が来るかも、というところまできている。 様々な意見があろうが、私個人としては早くそうなってほしいと思う。先月、心臓移植のために渡米した1歳の男の子が、手術までこぎつけながらその後亡くなったということがあった。 うちの子ども達のかかりつけ医院でも募金を呼びかけていて、些少だが寄付させてもらったお子さんだった。 私の息子も同じく1歳。ニュースをきいたときは本当に切なかった。
立場を変えて、「もし自分や自分の家族が脳死に陥ったら臓器提供をするか」と考えた。 私はドナーカードを所持していない。 以前もらってはみた。が、記入しようとカードの裏、提供臓器にマルをつけるところで心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓…と見ていたら、 なんというかあまりにリアルで恐ろしくなってしまい書き込めなかった。 何度でも書き直せると分かっていても、重大すぎてペンが止まってしまう。 少々投げやりな感じだがいっそ「家族に決めてほしい」欄はないのか、と思ってしまった。 そのカードもどこかへ行ってしまい、それっきりだ。
自分のことでさえそんな調子なのに家族、特に子供達がそうなったら… そんな怖いシチュエーションは思い浮かべる事自体辛いが、そこを敢えて考えてみる。 まだ暖かい体に触れ断じて死んだと認められないと思うならきっと臓器は提供しないだろう。 逆にその場になったら、臓器だけでも生かしてほしいという考えに傾くかもしれない。 結局私自身の時と同様、今意思を固めるのは難しく、その場になってみないとどんな感情が湧いてくるか正直分からない。 無責任かもしれないが、三十数年生きてきて死生観たるものも固まっておらず、結論はとても出せないのだ。
昨今「移植のための臓器はその患者の国で賄う」という国際的な流れもあって、子どもの臓器移植について一歩踏み出す決断を迫られている我が国。 冒頭のようなお子さんが、ひとりでも救われるようにと私も願っているが、その一方で私は最近、脳死状態のお子さんを8年も看病し続けているお母さんの存在を知った。 もし、私がこの人の立場なら・・・やはり臓器提供はできないと思う。 このことを自分の問題として捉えるのがいかに難しいか。 やはり私の中では答えはまだまだ出せそうにない。
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食べることにあまり興味がないという人たちも少なからずいるようですが、僕はどうせ食べるならなるべく美味しいものを食べたいと日々思って生きているクチです。しかも、外食ということになれば、対費用効果なども考えつつ真剣に店選びをします。
湯水のようにお金があれば、タイヤメーカーが出しているガイド本からなるべく星が沢山ついているお店を選べば間違いない (あるいは間違いが少ない) のかもしれないけど、残念ながら、いや本当に残念ながら、そういう訳にはいきません。ゆえに必然的に、リーズナブルで美味しいお店を探すということになります。しかし、安くて美味しくて感じの良いお店というのは、そうそうある訳ではなく、運良くそういうお店に巡り会うと、神様に感謝したくなくなるほどです。
そんな良いお店の条件とは・・・。まず何はともあれ、美味しいものを食べてほしいという店主の気持ちが伝わってくる店。うちは安い店だからここは手を抜いていますというのがない。お客に対する対応も高飛車なわけでもなく、かといってへりくだっている訳でもない。基本的に丁寧であれば十分です。
それともうひとつ忘れてはいけないポイントは、間(ま)、タイミングです。どんな美味しい料理でも提供までに時間がかかったり、食後のコーヒーがなかなか出てこないと、素敵な食事タイムが残念な結果になりかねません。
「間」と言えば、僕たちしゃべり手にとっても最も重要なポイントと言えるかもしれません。聞いていて心地よいな、うまいなと思えるしゃべり手さんは、この「間」の取り方が本当に絶妙なのです。「間」で伝えたい気持ちを表現するのです。
こうやって良いお店の条件を並べてみると、まさに良いアナウンサーの条件と見事に一致していることに気がつきます。灯台下暗し?
僕は、三ツ星レストランのような売れっ子スターではないけれど、(そういう野望もまだ捨ててはいないはずですが…)、足しげく通ってもらえる隠れた名店のようなしゃべり手でありたいと思います。
二子玉川にあるやはり隠れた名店のカフェでお昼を食べつつ、良い食べ物屋さんの条件は何かと考えていたら、自分の仕事のありようもまた同じではないかという結論に達しました。でも、案外どんな仕事にもこの名店の法則は当てはまるような気がします。
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